第6回 活かされる家、活かす人

矢澤邸(座光寺万才)

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 矢澤邸は座光寺小学校から高森町との境をなす南大島川までの段丘の中にある。

 母屋は大正時代末期に平谷村のうつぼという地籍にあったものを移築したものである。うつぼでは三州街道沿いで熊谷という人が中馬宿をしていたがある時、現在の153号線の前身なったこの三州街道が拡幅改良されることが決まった。熊谷という人は判断の速い、目先の利く人だったようで、そうなれば運送は馬からトラックに変わり、中馬宿はたち行かなくなるだろうと早々に締め、愛知の方へでて商売をしたそうだ。その家を人に紹介されて矢澤家で購入し、移築することになった。

 さて、家の材料となる樹は育った年数分は建材としてもつといわれている。つまり樹齢二百年の木を使って建てたなら、その家に二百年は住めるのである。その中馬宿は築後三十年くらいでまだまだ使える家であった。現在は新築よりも高価になるためか移築再生の頻度は減っているが、昔は木材とその製材の手間をはぶけるためわりと行われてた。また民家の構造はシンプルなので、土壁を落し木組みをはずせば解体できて、また組み立てればよかった。また土壁も新しい土よりも、一度使った壁土を混ぜて寝かした方がいいものになるらしい。昨今、家さえも使い捨ての感のあるが、当時は家屋やその建材を寿命いっぱい活かし切る工夫されていた。しかもそれは一件の家に留まらず、地域のシステムとして成り立っていた。誇らしく良き時代であったと思う。

 ところで養蚕の最盛期であった当時は入母屋造りの総二階、平入りで高い天井の家がその目的のために多く新築されていた。矢澤邸の母屋も多少改造されているが構造は同じである。広い軒下に二階からこくそ(カイコの糞や食べ残した桑など)を落とす窓が当時のなのごりである。矢澤家では戦後に養蚕をやめ、桑畑は果樹園に変わった。

 今も矢澤家は専業で農業をしている。畜産を除き、たんぼ、果樹園、畑と農業のすべてがここにある。自給自足もできそうである。家も土地も活かした暮らしである。南大島川の河岸段丘の美しい場所で矢澤さんは今日も作業をされていた。
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